息子の根性、モチベーションを維持した精神力、親バカと言われようが褒めてやりたい。と同時にここまで息子をたくましく育ててくださった学院にも言葉では言い表すことができない程感謝している。

S・W様(お父様) 藤田医科大学医学部医学科一般選抜前期合格

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「K大受かった」二月四日(金曜日)十二時、医院の自室で待機していた妻の電話にかかってきた息子の第一声だった。息子の声はクールであった。嬉しさを押し殺してクールを装っていたのか、今年度の本人なりの自信の裏返しであったのか。十二年前、息子はサッカーと出会った。クラブチームに所属し小学六年生の大会で初めて県チャンピオンとなった。中学生になってもクラブチームに所属しサッカー三昧の日々を送った。中学卒業後サッカーでは全国的にも名が知れた県内の高校に進学した(もちろんサッカーが目的である)。サッカーに対しては愚直に努力を惜しまない反面、勉学への興味は確実にうすれていった。県立高校ではあったが、留年するのではないかと本気で心配させられるような成績表が毎回送られてきた(素点を順位と見間違えるほどの成績表であった)。それでも何とか高校を卒業し、何を思ったのか息子本人から医系予備校へ進みたいと言ってきた。一浪目、本人の姉が通っていた北九州市の予備校に入校させた。時間や行動を限りなく支配することで高い合格率を誇っている予備校であり、本人の姉もそこで合格を勝ち取った。親にとっても知っている予備校に入校させることは安心でもあった。しかしながらこの決定は本人の意思を尊重しなかった私の誤りであった。多少の伸びはあったものの息子自身には居心地の悪い時間が過ぎ、一浪目が終わる頃、予備校を変わりたいと言ってきた。自分で見つけた予備校に変わりたいと。それが富士学院福岡校との出会いであった。二浪目の春、息子と私は富士学院福岡校の校舎にいた。息子は自分で選んだ予備校であり覚悟を決めているようであった。私は、いや、私も親として別の意味での覚悟を決めていた。親として出来ること、それは何年かかっても息子を信じ応援し、金銭的な援助をすることだけだと。この時から息子にとって本当の意味での浪人生活が始まった(と同時に私にとっても岡山県北に位置する津山市から福岡市への年二回の定期訪問の始まりであった。最終的に私はGoogleマップを使わなくても筑紫口から歩いて学院まで行くことが出来るようになった)。息子は今まで知らなかった(知ろうとしなかった)勉強の方法、試験のテクニックを学んでいった。またサッカーだけでなく受験勉強においても努力は裏切らないこと、そして何よりも成績が伸びることの喜びを知った。同じ目的を持つ仲間が身近にいるという安心感にも助けられた。学院で過ごすこと三年、息子にとって四浪目の受験において春を掴み取った。中学高校時代の成績からたった四年間の浪人生活で医学部合格を勝ち取った息子の根性、モチベーションを維持した精神力、親バカと言われようが褒めてやりたい。と同時にここまで息子をたくましく育ててくださった学院にも言葉では言い表すことができない程感謝している。学院との出会いから三年間、私が一貫してお願いしてきたこと、それは二つのことであった。「息子にとって一番良いと思われることをして欲しい」「褒め倒して木に登らせて伸ばして欲しい」、この二つである。前者についてはこれまでも親として我が子供達に平等に行ってきたつもりである。しかし後者について私はそこまで息子に寛容になれなかったように感じている。「良いことを探す」よりも「良くないことを探す」、「出来ていることを褒める」よりも「出来ていないことを貶す」、「肯定する」よりも「否定する」ことが優先されていたのではないかと自省している。学院は見事に息子を煽て、褒め倒しながら木に登らせて下さった。まさにプロフェッショナル集団である。旅立ちの前夜、私は息子にこう言った。「富士学院は君にゴールを与えてくれたのではないよ。スタート地点に立つことを与えてくれたということを忘れてはいけないよ」と。さらには六年後、国家試験合格後が本当のスタートであることを忘れないで欲しいと願っている。余談であるが本人も親もK医科大学に行くものと準備していたが、三月三十日に藤田医科大学から追加合格の連絡があり、結局息子は第一希望であった藤田医科大学に進学した。